昭和41年05月04日 朝の御理解



 神様は遠い所もなければ、近いところもない。清いところもなければ汚いところもない神様は、どこであろうが、どんな、遠いところにそれを隔てておろうが神様のお働きに変わりはない。そこのところに皆さんがまあそうだと思いますよね。けれどもやはり、目の前にそれが見えておりませんと心配であり不安であります。昨日、私、吉井の熊谷さんところの宅祭りにまいりましたすぐその後に、伊万里から竹内先生とそれから、おかあさんである.
 おばあちゃん、ね、正教さんに言えばおばあちゃんにあたりますが、二人お参りになって見えておらます。孫の正教さんはここで修行をしておりますから、もう、先生は、その間何回も参ってみえられましたけれども、おばあちゃんは四月の御大祭にお参りしてみえられましたきりでありますから、やっぱり心配なのですね。
 正教がどげなふうにしよるじゃろうか、修行が出来よるじゃろうか、病気でもしとらんじゃろうか。これが、やはり、かわいい孫のことでございますから、当然であり心配することも、もう当たり前でございますけれども、そばにおればです、近いところにおるとそがそうでもない。けれども、遠く離れておると自分の手元から離れておるとそれがやはり不安になり心配になりというのがやはり人情なんです。
 だから、人情なのですけれどもそういう時にです、昼もなからなければ、夜もない。昼夜の隔てもなければ、遠いとか近いと言うこともない。清いというところ、汚いというところの隔てもない。神が一様にそこのところをご守護お守りくださるのであるからと思うておってもやはり目に見えないとやはり心配をする。だからそこんところに、安心のおかげを頂いて行くために次に教祖は「頼む心に隔てなく祈れとこう仰られる」頼む心に隔て、頼む心とは信頼心という。
 頼む心に隔てはあってはならない不思議なんですね。例えば子供が目の前で頭が痛いとか、腹がせくとか苦しんでおるのを見ますと、はあ痛かろうきつかろうと思うてから、それを実感的にきつかろうと思いますから、神様に一生懸命お願いをする。所がそれが目に見えていないと、その実感がどうしても薄らいでくる。金光様と切実にその祈らせてもらうその祈りもやはり薄らいだものに、人間の凡夫を感じる訳であるですね。
 目の前に見ろうが見るまいが、隔てなく祈らせて頂くところに信心の稽古をね、おかなければならんと思うです。これはまあんなら、伊万里と椛目というくらいならいいですけれども、それがもう、海を隔てたアメリカであったり、ね、ハワイであったりと、いうことになりますと、もうさあ、ちょっとやそっとで間に合うことではないです、ですから、まあいうなら、東京とか、大阪あたりにいっております、子供達なら子供達がどうしておるかと、手紙を出したり、向こうから手紙がくるそれを見てから、安心する。
 先日も北野の福島さんが今東京に二人の息子さんがあちらにいっております。一人の息子がちょっと心配なことを言うてきておりましたから、早速、お父さんお母さん二人ともお願いに参りました。それで、もう本当に、飛んでいってやりたいような事なのです。ね。けれどもその、飛んでやってみてやったからというてどうする。頼む心に隔てなく、祈らせて頂く。いわゆるお取次を頂いて、安心のおかげを頂いていく意外にはないのだ。自分が手が届かんのだから。これは私が福岡で修行中の時分でした。
 私が、こちらにおります親達の事をお願いしておりました。やはり、私の方の親も私のことを願っておる。祈りと祈りが交流する。大変熱い日でありましたが、あの母が長い、枝のついたうちわで私の方へ向かってこう仰いでおるところを頂くのですよ。はあー親の思いとはこういうものであろう。届かないのである。届かないのだけれども、もし福岡までも届くうちわがあるのなら、本当にあれがどうしよるじゃろうか、暑かろうね、福岡までもし届くうちわがあるのなら、仰いででもやりたいというのが親心。
 というて、そういうような事は、実は不可能な事ですから、ね、結局、頼む心に隔てなく祈る意外にないのです。何かいうてまいりますと、本当に跳んでもいってやりたいような気持で、切実に祈るのですけれども、何でもないときには、まあ無事にやっておるだろうと、何とも言うてこん時がよか時というふなくらいで、あの祈りの方へ、非常ににおろそかになってくる。
 だから、常日頃です、お取次を頂いて、その事を祈り願わしてもらい自分の心に神様の隔てないご守護を受けておるのだと、いう心の中に確信が持てれる信心をしておかなければならんということ。神様におすがりをさせて頂いてお取次を頂いて、お願いをさせて頂いて、自分の心の中に安心のおかげを頂けれるだけの、信心を、例え、目に見えなくてもです、目の前に苦しんでおるのを見ると切実さ感がでるのだけれども遠く離れておると、それがもう薄らぐ。
 遠く離れておると薄らぐ。それがいけん。いわゆる頼む心に隔てがある。頼む心に隔てを作っておる。そこに遠いもなければ近いもない、清いところも汚いところもない昼夜を問わざるものもないと仰る、昼もなければ夜もない、おかげが頂けれるそういう、神様のご守護の中にお守りの中に、あるのだという事。
 もういつでございましたでしょうか。もう長女が中学の時分ですからもう十年。になりますでしょうか。ある夏海水浴に参りました。その年は非常にああいう海水浴での事故の多いもう毎日、三面記事をにぎわしておるといったような、まあ日々でした。そういういような時に、友達と連れなって、海水浴にいったところが、夜の御祈念が済んでもかえってこないのですよね。
 家内が心配しましてからお届けにまいりました。なんとか手をうたなくてもよいでしょうかと、ね、あっちこっちに電話くらいかけてみらんでよかろうかと、私もやはり聞かせてもらえばやはり心配になるのですよね。結局私の心の中に隔てなく、目の前で見ているような祈りが出来ていなかった。いよいよさあ、こげん遅くなっても帰ってこんという事を聞いてから後で慌てておる。
 そこで、ならさあ、電話かけてみれさあ手紙を出してみれ、例えば遠いところにおるなら、というようなことに慌てずにです、その隔てのある思いでいわばその、そういう願い、そういう信心がかけておったことをまずお詫びさせて頂いて、神様にお願いをさせて頂くところから、神様に心の中に安心と言う心が頂けれるのです。
 神様に私お願いをさせて頂きよりましたら、もうあそこが、千尋の海というのでしょう、深い深い海のそこを頂くのですよ。そして御理解に頂くことがです、例え千尋の海のそこにあったところでです、例えば海水浴にいって、おぼれてです、もうおぼれて死んで、海のそこに例えば体が沈んでおったところでです、そことて、やはり天地の親神様の懐ではないかと言う事。その御理解を頂いた途端に私の心の中に、ほんなこと、日頃の信心はどこにいっておるじゃろう、もう目の前に姿が見えんともう心配しておる。
 そうだった、千尋の海の底におったところで、そこも神様の懐の中であったと、神様のご守護の中であったとこう、心の中に思わせて頂いたら、安心が生まれる。安心が生まれたその事を家内に、その事を話させて頂いたら、家内が本当にそうでした、安心が出来た。それから30分あまりして無事に、元気に帰ってきたわけですけれども。私共の心というものがです、本当にそういう例えば、もう本当に例えばよしそこが海のそこであろうがそこが、天地の親神様の懐の中だとこう、私共が隔てない心を持って祈る時にですそういう心の中にです、ね、本当の事を思わせて頂けれる安心の心が頂けるのですよ。
 もう少し信心の薄い人があったら、そげな事どんいったらなお心配になる、と言うことになるでしょうけれどもそこが日頃の信心そこに心の安心が頂けれる。よし、それが東京であろうがアメリカであろうがです、離れておってもその安心が心の中に頂けれるときにはもう、おかげを頂いておるときだと私は知らなければならない時だと思う。
 これは遠い近いというようなことではありません。例えばなら、これが、御霊の世界といったような、三万億度ともうしましょうかね、どれだけの距離があるか分からないところへ私共の魂が、まあ、いくものだとまあ、仏教ではといております。だからなくなった例えば子供が、例えば先祖の御霊がどんなふうにしてござるかと.
 昨日も、私ちょうど、吉井から車で迎えに来ます前に、用意が出来ておりましたから、待っておるちょっと、時間に三橋先生がきておりました。それから土居の久富繁雄さんが見えておられましたから、あの、長女にあのお茶でも頂こうかと、そこであの、お茶でも頂かせてもらう。そして、私話したことでした。
 こういうような雰囲気の中になくなりました先代の三橋先生が、おるとその雰囲気がたまらなく素晴らしい雰囲気が生まれてくるのですね。やはり、修行、お茶の道に修行をしておりますから、そのお茶の雰囲気と言うものが素晴らしい。それが、ほんに,ほんこんかという魂を返す、線香があるわけなんです。線香をたきます、線香をたきますと線香の煙がゆらいでまいりますとその線香の煙の中にそこに、亡くなった御霊がはっきりそこへかえってくるというわけなんです。ね。
 そこに例えばそういう線香なんかがあると、こんど、お茶でもする時なんか、ちょいと、電話を入れるように、お茶をいれよるけんちょいとこんのと、というと、三万億度からぱあっとやってこれれる。そしてそこに、よいお茶の雰囲気を作ってくれる。これはんなら、三橋先生のことだけではありますまい。ね。亡くなった親とか子とかね、会いたいときにはその線香をたいてもらうとです、そこに彷彿として、自分の願うその人がそこに現れるというような、まあ、ありがたい線香があったら、それがほんこんかといったようなものがまあその魂を呼び戻す力のある、線香があったら、便利なことじゃろうなといいなが昨日お茶を頂いたのですけれどもね。
 やはりそれなんです。本当に亡くなった、いうならばその、三万億度という遠いいところにおる御霊でもです、自分の心の中に近ーく頂けれる、身近に頂けれるほうというのは、あの線香をたくような、思いがいるのです。ご仏前に(香華)をと申しますが花やらお線香やら、お灯りやら奉るというのもそれなんです。あの香の香りをきいてから、嫌な思いをする人はありますまい。お明かりの赤々と燃えておるのをみてから、嫌な思いをする人もありますまい。
 心が明るく心があの香の香りを聞いておる時のように心がすがすがしゅう、ね、清らかに、そしてその御霊ならその御霊に、思いを寄せる時です、御霊の助かりを感じ、また、同時に自分の助かりを、感じるところに御霊の助かりを感じるのです。例えばそれはそういう、三万億度といわれるような所に離れておるその御霊の世界と私共の世界だって、真心をもってそうして身近に、身辺にそれを感じることが出来れる、おかげが受けられるのが信心。
 (?)東京におる息子のことであろうが、どこどこに離れておるだれであろうがです、自分の心の中に真心というものを持ってです、頼む心に隔てなくそれが、祈らせて頂けれる所にです、先ほどから申しますように、よし例えばそこが千尋の海のそこであったと所です、神様のご守護の中にあったんだなあという安心が生まれてくるのです
 そこに私の助かりもあれば、子供の助かりもあるのです。問題は私自身が安心する事なのです。私の心がまず安らぐ事なのです。ところが、目の当たりに見ていないと心配になる。電話一本かけてみろうかと、だから電話でもいっちょかけてみようというその心にです、私は線香をたかなければいかんということ。そして自分の心の中にゆとりを頂いき安心を頂いてから電話であり手紙であるというようなことにならなければ、信心を頂いておる値打ちはないのである。頼む心に隔てなく祈れというのはそういうことである。
 ね。目の前に見えておることだけが、切実に祈れるというのではくてです、そのような例えば遠いいところも近いところもない、祈りというものがです、絶えず私共の心の中になされていかなければならないのですけれども、そこは凡夫のことでございますから、便りがこん時はこん時がよかときちいうごたる風でいつのまにかそれをおろそかにして忘れてしまっておる。そして何か心配事でも言うてくると、今度はそれにも倍したした心配をする。飛んでもいってやりたい、走ってもいってやりたいという思いがする。
 ほんにあつかろうと福岡までも、もし届くうちわがあるならあおいでやりたいというようないわば思いをするけれども、その思いを神様に向けるときにですありありと身近に、ね、子供なら、子供の安否を自分の心の中に感じる事が出来れる。いやよし、安否ではないどのような場合であってもそれが海の底であっても、心の中に、なるほど、そこも神様の懐であったというような心が、心の中に開けてくる。
 ここにね、信心をさせていただくものの助かりと言うものを感じるのですね。信心を頂いておるものの有難さというものを、感じるです。心配になる、そこでお取次ぎを頂く、お願いをする、そこに私はほんこんかというかね、線香を焚くようなその、働きというものがそこに彷彿として幸せないやおかげを頂いておるという姿を目の当たりに、自分の身近に感じられるおかげが頂けれると思うのであります。
 わざわざ、椛目走ってくることはいらん。神様の前に座らせて頂いて心静かに御祈念をさせて頂き、隔てなき心で祈れと仰るのに、心の中にそういう薄らい遠のいたものがあったことをお詫びさせていただいてくりかえしお願いさせて頂いておると心の中に安らぎが生まれてくるというようなところまで一つ、おかげを頂かなければならない、いわゆる目の詰まった信心をさして頂かなければならないと思うのでございます。
   どうぞ。